朴勝俊 Park SeungJoonのブログ

反緊縮経済・環境経済・政策に関する雑文 

太政官札の発行・流通・廃止の経緯 『明治財政史 12巻 通貨(2)、銀行(1)』から学ぶ

2020.6.24

解説・要約:朴勝俊

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■ 解説

 太政官札(だじょうかんさつ)は明治元年(1868年)に、新政府によって発行された政府紙幣です(ちなみに太政官は現在の総理大臣に相当する役職です)。それまでの小判とは異なる紙切れであって、政府は金などとの交換(兌換)を約束することで、その価値を保証していたわけではありません。そのため現在では、すぐに政府が太政官札を乱発して、ひどいインフレを引き起こしたと、つまり太政官札は失敗の歴史だと信じている人が少なくありません。

 しかし実際には、西南戦争が起こる明治11年頃までは物価は安定し、むしろ下落傾向にあったことが知られています。戊辰戦争(1868年1月~5月)のあとは若干の物価上昇が見られたものの、明治10年の物価水準は明治元年よりも8%低く、その前年の慶応3年(1867年)に比べると18%も低かったということです。新政府が、慶応3年末から明治2年9月にかけて行った財政支出は、戊辰戦争の戦費も含む5129万円でしたが、そのうち実に4800万円を「太政官札」の発行でまかなっていました(丹羽2005;廣宮2013、pp.95-96)。

 常識的に考えると、こんなことをすると激しいインフレにつながると想像されますが、どうして物価が安定していたのでしょうか。

 昨年あたりから日本で広く知られるようになった現代貨幣理論(MMT)では、「租税が貨幣を動かす」ということが言われます。紙幣であっても、その貨幣単位(当時は両)で税額を定め、その紙幣で税を納めるようにさせれば、人々は紙幣が必要になり、その流通が促進され、価値が保たれる、ということです。そこで筆者(朴)は、明治政府発足当時の税制を調べると、太政官札が流通するようになった経緯が明らかになると考え、1905年にまとめられた『明治財政史 12巻』(明治財政史編纂会編 1905)を紐解きました。

 その結果、明らかになったのは、どうも「税さえ課せば貨幣が簡単に流通する」というような話ではなさそうだ、ということです。紙幣を金と交換する者を処罰したり、小判の使用を禁じたり、地方政府に金と引き換えに紙幣を受け入れさせたり、色々なことが行われました。しかし明治2年5月ごろには、早くも太政官札の廃止が予定され、発行高も3250万両に制限されることとなりました。

 1871年明治4年)には金の裏付けのある新紙幣との交換が始まり(新貨条例)、政府紙幣は1879年(明治12年)ごろまでかかって回収されていきます。1873年明治6年)の地租改正で、日本も本格的な徴税システムを導入するのですが、それよりも早くに、廃止されることとなったのです。

 以下の資料では明治元年~2年に関する記述の要点を、現代文で読みやすく記しました(厳密な現代語訳ではありません、原典は財務総合政策研究所のHPで読むことができます)。この資料を見ていただけると、新政府の人たちが新貨幣を流通させるためにいかに苦労し、課税でだけでなく、いかに様々な策を凝らしたがよく分かるのではないかと思います。貨幣論を研究する方々にも、最近になってこの分野に興味をもつようになった方々にも、お役立ていただけたら幸いです。

 

■ 資料:『明治財政史 12巻 通貨(2)、銀行(1)』(pp.14-22)

明治元年(1868年)

[明治元年2月の]発行後、金札(太政官札)に慣れないのと、政府の信用が固くないことで、流通は困難となり、価値は正貨(小判等)に比べて著しく低かった(三都でも金札100両=正貨40両)。

6月20日、政府は打歩引換(金札を割り引いて正貨と引き換えること)を厳禁した。それでも効果はなかった。

9月23日の布告で、租税その他、一切の諸上納に金札を用いることを命じた。それでも十分な効果はなかった(これは、少しは効果があったという意味か)。その後もいろんな方策をとったが、金札は正貨より2割ほど安かったという。いろんな方策とは、禁令者の処罰等である。

12月4日の御沙汰では、金札の時価通用を認めた。
12月24日の御沙汰では、諸上納は物納・金納をすべて金札で、時価で収めさせることとした(金100両=札120両)。

それでも、人々は金札を忌避し、禁令・勅諭が出るごとに拒否感を募らせたため、政府は政略を一変することとした。

 

明治2年

2月3日の布告で、金札に関する禁令に違反して投獄されたものを特赦した。

さて、当時流通していた正貨は、幕府末期の小判等であったので、粗悪であった。2月5日の決議で、太政官の中に造幣局を設置し、東京の金座・銀座を廃止し、自ら貨幣改鋳に乗り出すことと、政府のあらゆる支払は正貨ではなく金札で行うことを決めた(外国人に対するものだけは例外)。官吏の給与や物品の代価もすべて平均相場で、金札で支払うこととした。全国の府・藩・県に対しても、金札を正貨に換えて支出することを禁じた。

しかし、全国の金札流通量が急に増えたため、金札価格は激変を起こし、商家の破産・閉店が増えた。官吏も金札を両替店で正貨に換える有様であった。

4月8日の御沙汰では、政府は商品の売買に正貨の使用を禁止した。それでも、金札の価格回復と流通円滑化の効果はなかった。

4月29日の布告で、政府は金札の通用年限を改訂し、新貨幣が鋳造されればそれと交換することとして、それまでは金札と正貨は同じ価値で通用するよう命じた。断固として、金札相場を廃止するとしたのである。この布告により、5月2日からは金札と正金の引換を禁止し、租税その他の上納のうち、金納されていたものは全て金札を用いるようにさせた。

5月28日の布告では、金札の発行高を3250万両に制限することとして、製造機械を廃棄すると宣言した。また、この年の冬から明治5年まで、金札を新貨幣に兌換し、兌換できなかった金札は、1月あたり5朱の利子を付けるとした。金札と正金の両替を行った者に対する罰則も制定した。

これによって、ようやく金札が流通するようになった。

6月6日、ここに乗じて政府は、府・藩・県に1石あたり2500両の金札を配布し、これと同額の正貨を納付させた。地方の金札流通をはかったのである。地方への配布高のうち1550万両は、発行制限高3250万両には含まれない。こうして発行高を増やしたが、金札の価格は安定し、流通はむしろ円滑化した。その理由は主に、5月28日の布告によって金札の信頼度が高まったことであるが、他にも重要な原因があった。江戸末期より当時まで主に流通していた正貨(二分金)が粗悪だったことである。

 

 

参考資料

丹羽春喜(2005)「時事評論」『カレント』、平成17年2月号

廣宮孝信(2013)『国債を刷れ![新装版]これがアベノミクスの核心だ』彩図社

明治財政史編纂会編(1905)『明治財政史 12巻 通貨(2)、銀行(1)』
https://www.mof.go.jp/pri/publication/policy_history/series/meiji.htm